肝硬変・母の闘病記録

肝硬変末期の記録です。

四十九日を終えて。

10月半ば、無事に四十九日を終えました。

やっとブログを読み返す元気が出てまいりました。

 

四十九日直前に酷い風邪をひいて

最近まで引きずっておりました。

身体は正直です。

 

 

葬儀の後、まず、日常に戻るための片付け。

 

最初の休日で仏具を買いに。

翌週仏壇を購入。

 

9月の連休で

簡単な片付けや形見分け

写真の整理など。

親子3人で、懐かしい~と。

(本格的な遺品の整理はこれから)

 

その後は

香典返しの準備や、四十九日の準備。

病床の母が出来なかった家の掃除など、

何かと気ぜわしい日々でした。

 

家の掃除をしていた時に出てきた、エンディングノート

 

元気な60代の頃、私と本屋さんに行った時に買ったノート。

その時は、母の気休めになれば、と思っていた。

懐かしさとともに何が書いてあるのかドキドキしてすぐには読めず。

 

気持ちの余裕がある時に恐々めくってみると・・。

白紙でした(笑)

 

白紙でしたが、写真が一枚出てきました。

近所の方と旅行した時の。

まだ元気な頃で、ふっくらしてて、自然な笑顔で。

 

有料の写真(プロが撮った写真)なので、とてもキレイに撮れていた。

 

あ~。いい笑顔の母だ~。

 

 

 泣ける~。

 

 

 

その他に

 

何気ない日常のメモ出てきた時。

 

一日一言メモ。

〇月〇日、誰誰と食事・・みたいな。

(実家にあるのでうろ覚え)

 

いつの年代だろう・・と考えつつ見ていくと、

キーワードになる一言が見つかったり。

(うちのワンコの入退院の事が書いてあった)

 

母の気持ちも一言書いてあったり・・。

 

 

 

それと・・

何気ない事をやっている時に

突然寂しさに襲われて泣けてきたりと、

自分ではもう落ち着いてきているつもりなのに

びっくりする。

まだまだ、気持ちはいっぱいいっぱいなんだな・・と思う。

 

当然だよね。

 

だって生んで、育ててくれて、いつも味方でいてくれた。

 

闘病生活もあって、突然の別れでもなかったはずなのに、

やっぱり寂しい。

 

今日は久々にゆっくり出来た日で、

やっとこのブログと向き合えた。

そして、しっかり涙を流せた。

すっきりした。

 

お母さん、ありがとう。

これから日常を大事にしていくね。

 

 

 

*告別式や遺影写真のこと。

以前から、家族葬にしてね、と言っていた母。

 

元気な時は軽く受け流し、

調子が悪い時は聞きにくい質問だった。

 

終わった今はこう思う。

*本人にもっと具体的な要望を聞いてだいたい決めておく。

*遺影の写真も決めてもらう。

 

そうすれば、家族の後悔は少なくなると思う。

 

 

病院で、まだ差し入れを食べたり出来る状態の時に、

母の方から話題にしてくれた時は少し聞けた。

 

直接式場に入れて欲しいとか(実家では無く)

誰まで呼べばいいのか。

 

こんな程度は話せるようになっていた。

 

今、告別式を終えて思うのが、

もう少し具体的に決めておけばよかったということ。

 

まず、遺影の写真も本人に選んでもらえばよかった。

 

父が用意した写真があまりにもぶちゃいくで、娘二人で却下。

代わりに4月ぐらいに写真の整理をしたときに出てきた、若い写真を使った。

もしかしたら、今の私より若いんじゃないかと思うぐらい・・(笑)

 

この時の写真の整理は、私が持っていたアルバムから。

昔の家族写真、実家のワンコの写真など、

楽しいものをまとめたミニアルバムを作った。

→会話の糸口になるかもと。

この時ぐらいから少しづつ気持ちの整理もしていた気がする。

この時、少しだけでもやっておいて良かった。

 

遺影の写真は 

家族が良ければ、若くてもいいやん、とそれにしたけど・・。

もう少し最近の母の方が

手を合わせる時にホッとしたかも、と思う。

 

これから実家で写真の整理もするだろう。

その時に何枚か探してみようと思う。

 

何でも先に用意するのは縁起でもない気がしていたけど、

病院で看取った後、泣き疲れて、

頭も働かない状態で告別式の段取りは辛かった。

写真も手元にあるもので一番良いものを使ったけど、

もっとベストがあったはず・・。

 

しかも、家族葬って良く聞くけど、

一般的な告別式しか知らないので、

どんなプランにすれば良いのかも迷った。

 

きっと母は町内の人に死に顔を見せたくなかったと思うけど・・

 懇意で来てくださった方々にはお別れをしてもらった。

この辺は母の意向とずれてしまったように思う。

ごめんね。

 

 

肝臓の病気と闘った 川島なお美さんの本 「カーテンコール」

 

母が亡くなって2週間。

早いものです。

 

 

春頃、母の病状が悪化した時に参考にした本です。

 

川島なお美さんの「カーテンコール」

去年のペットロスのさなか、

川島なお美さんの愛犬の事が気になって検索。

(同犬種・同年代ぐらいだったので)

 

ワンちゃんとのお別れのブログにヒットしました。

少し読み続ける。

興味深くなったので、没後出版された本を読んでみた。

 

ワンちゃんとのお別れは、自分とも大きくリンクして、

涙涙・・。

シナモンちゃんが亡くなる間際とか、死に水の話とか。

 

そして・・ご自身の病気の話。

最後まで前向きに闘病されていた力強い女性だと

心から尊敬しました。

 

その後は特に気に留めていなかったけど・・

 

母の腹水の時に、気が付いた。

川島なお美さんも肝臓だった。

 

カーテンコール

何度か読み返す。

 

肝内胆管がん

 

母と病名は違うけれど、

最終的に肝臓が機能しない点では

症状は似ているはず。

 

腹水のあたりのことを何度も読み返す。

 

食べものを口から食べられなくなったら生き物は死ぬ

 

この言葉は川島なお美さんの言葉です。

 

実際の臨終の様子は母とは少し違いましたが、

母が夏まで持たないかも、と覚悟した時には、

こんなイメージなんだ・・と。

 

最後は意識がもどる様なことはない、

眠るように静かに旅立っていく、こちらも参考になりました。

 

川島さんの精神力の強さ、

ポジティブさ、

素敵な女性だと、改めて感じる内容で、感動した一冊です。

 

たまたま愛犬の事で読んだ本が、

母の闘病にもリンクする。

(肝臓というキーワードが同じ)

 

肝臓に限らず、ガンの末期なども共通する点は多いんでしょうね。

 

自分が闘病することになったら・・

どんな時にも楽しく過ごす姿勢など、

真似してみたい。

 

・・今から真似しなきゃね。

 

時間は有限。

 

 

 

 

 

*孫の顔を見せられなくてごめん。

「孫を見せられなくて本当にごめんね。」

 

 

不妊治療までしたけれど、授からなかった。

8月中旬、何か話そうと思って、出た言葉がこれだった。
直前まで感謝の言葉を言うつもりで、これが出た。

自分でも驚いたし、泣けてきた。

今思うと、その時、
母の目にも少し変化があったような気がする・・。
(すでに会話が出来なくなっていた時)

 

小さくなっていく病床の母を見て、
自分には通ってくれる子供がいない事を痛感する。


自分が母と同じような病気になったら・・と思うと怖い。
体質も似ているし。
何より、長い闘病生活になる。


そうなったらそうなった時。
それも自分の宿命だ。
その時、本当の意味で母の気持ち・状態が理解出来るようになるんだろうな。

 

 

*8月26日(土)の下書き

 



 

*先生のこと。

2月に骨折で入院した病院で肝硬変の相談もする。

 

県内の社会医療法人で大きめの病院。
でも、肝臓を専門に診られる先生がいない、ということで
なかなか積極的には診てもらえず。

 

もともとは県外の市民病院にかかっていて、

肝臓の偉い先生に診てもらっていた。

なかなか良くなっていると感じられない母は何度か他の病院でも診察を受ける。

何年か前、認知症みたいな、うつ病にも思える症状が出たことがあった。

その時にも近隣の病院をはしごした。

・・肝性脳症の症状だったのかも・・と今だから思う。

 

でも・・どの病院でも

そちらの先生の名前を出すと、

そちらでかかってください、とのこと。

 

しんどい事を伝えてもあまり親身に聞いてもらえなかったそうで・・。
長い時間待って、診察5分。

高齢だから仕方が無い、暑い夏は誰でもしんどい、みたいなことを言われて

通う気を無くしたとの事。

お医者さまとの相性も大事なことなんだと今更ながら思う。

 

骨折の入院中に肝臓の件で相談した
若めの男性医師が
真剣に向き合って下さったのが嬉しかったみたいで、
ちょっと頼りない(らしい)けど一生懸命やってくださる先生と、
社会的地位・権威もおありだが、気持ちに寄り添ってもらえなかった先生。
・・究極って言えば究極。

 

でも・・
肝硬変の末期ということで、
積極的な治療も出来る状態ではないので、

気持ち的に納得できる方が良い、
こちらの病院にお世話になることを家族で強く希望する。

(もちろん母が一番希望した)


紹介状のやり取りでも、少し面倒だった。

お世話になりたい病院も、その肝臓の権威ある先生に遠慮があるのか、

直る見込みのない患者を受け入れたくないのか、

なかなか進まず・・。

 

ギリギリ、7月の入院前までに紹介状のやり取りが済んでいたので、

希望する病院に搬送してもらえたのが実状です。

 

通常の面会時間にしか行けなかったせいか、先生とはお会い出来ず。

どっちの先生にも、休みを取って付き添うなどして、

お会いすればよかったなぁ・・と今更ながら思う。

父がしっかりしてるからつい、任せきりにしてしまったけど。

結局何でも、 たら、れば、になる・・。(反省)

 

 

 

*入院前のこと。

母が亡くなって一週間が立つ。

 

最後の入院(7月1日~)から、何か記録に残したい!と始めたブログ。

 

今年に入ってからの流れを思い出してみた。

 

毎年、年末に体調を崩すことが多く、

今思うと、忙しい年末は無理して家事をしていたから・・だと思う。

これが男の人だったらしっかり静養出来たと思う。

 

無理して動く→免疫力が落ちる→風邪をひく

この繰り返しだったと思う。

 

もともと家事は自分のペースでやりたがったので、

あまり手伝いにも行かず・・。

実際断られる。

動かないと筋力が落ちるから、どっちがよかったのか、

後悔のひとつ。

(最近の肝臓の本には、筋力低下を防ぐために適度な運動、と表記あり)

 

毎日、家事が一息つくと夕方まで休息。

お昼過ぎは立ち寄らないようにしていた。

 

ここ何年かのお正月の集まりは

母の体調不良のため、無しになることが多かった。

今年は久々に、妹家族(夫婦+孫2人)うち(夫婦)父、母と集まって

皆でうなぎを食べに。

今年は集まれてよい思い出が出来て良かった。

 

妹家族の近況報告や、うちの話、(空き巣に入られたこと!とか)

大きくなった甥っ子たちとの楽しい時間でした。

(姪っ子1人は仕事のため不参加)

 

よい年明けが出来たものの・・これが母との最後の外食になろうとは。

 

1月26日(土)

夜、11時過ぎにお風呂に入った母。

(いつもより遅めの入浴)

なかなか出てこないので、

父が様子を見に行くと・・

湯舟の中で意識を失った母が。

顔は出ていたと思う。

手を離すとそのまま沈んでいくので、

お風呂の湯を半分抜き、救急車を呼んだ父。

小柄な母だけど、意識が無い状態で、深めの浴槽だったので、

引っ張り上げられなかったみたい。

 

この時は救急搬送された病院の点滴で回復。(県外の市民病院)

お風呂は体力を消耗するそうで、

この時は随分、体力・免疫力が落ちていたと思われる。

後から読んだ記事などで、

肝臓が悪い方はお風呂に注意するよう記載あり。

その後、必ず父と入浴することになった。

深めの浴槽から出にくくなったことも理由のひとつ。

(足がだるくて上がらない)

 

もしかしたら、この時逝ってしまった可能性もあったと思うとぞっとする。

しかも、たまたま早く就寝した私たち・・。

携帯電話はリビングにあったので、朝起きてから着信を見てびっくりした。

 

次は、

2月8日(金)骨折のため入院。

 肝硬変は関係なく、転んだだけで骨折。

3月7日(木)退院。

 

この治療中にお世話になった病院で、肝硬変の相談もする。

 

→退院後も様子をみながら家事をするつもりでいた。

骨折は動いた方が直りがよくなるが、肝臓の為に安静に。

動ける日が少なくなってきた。

少しづつ、腹水がたまり始める。

 

4月に入り、腹水が酷くますます動けなくなる。

 

4月16日(火)腹水を抜くために入院。

一度抜いた腹水をろ過して必要な栄養を戻す処置。

すごく時間がかかっていた。

 

 この頃から、いろいろ検索するうちに、

夏まで持たないのではないか、とよぎり始める。

妹にも伝える。

 

入院する前、実家でお寿司を食べた。

ひそかに最後になるかも、と思いながら。

実際は2週間ほどで順調に退院出来、杞憂に終わる。

 

5月、6月は穏やかに過ぎたように思う。

毎週土曜日のお昼ご飯は私が持参するか作った。

→今、この期間の出来事があまり思い出せない。

早く記録をすればよかったな・・。

 

6月最後の土日は、私が実家に泊まる。

→父が旅行(母も安定しているし、息抜きも兼ねて)

妹が日曜に来れなくなったのが少し残念。

 

普段父が作らないような食事を作ってみた。

喜んで食べてくれた。

良い思い出になった・・と思う。

 

母のご飯、ワンコの散歩、合間に台所の片付け。

そういえば、取り寄せした梅が届いたので、

実家に持って行って漬けた!!

思い出した。杉田梅。

趣味の梅干しも今年は中途半端に終わっている。

 

この翌週、振戦が酷くなり、入院した。

 

今年に入って、お世話に通うようになり、

母はみやぞんさんが好きだと初めて知った。

あの笑顔、確かに癒される。

 

いろいろ思いつくまま書いた今年の入院前の記録です。

 

去年までは、ちょくちょく外食もしたし、モーニングにも行ったりした。

身体がだるいせいで、歩くのが異常に遅かった。

70歳半ばとは思えない。

80歳後半ぐらいにみえる程、動きがスローだった。

病気だから仕方が無かったんだよね。

肝臓が機能していなかったから血液が送られず、相当しんどかったはず。

もっといたわってあげていれば・・。

 

これを読んで下さっている方は、

肝臓の病気を患ってみえる方かもしれない。

私と同じように家族の立場かもしれない。

ただ、目に留めて下さっただけかもしれない。

 

自分が情報を探した時に

当事者の家族の方の記録に救われた。

腹水の期間、昏睡からどれくらい、など。

少しづつ、覚悟が出来た。

 

私は直前まで、のほほん、と過ごしてしまって、

後悔が多く、ああすればよかった、と落ち込むことばかり。

きっとこの後悔はまだまだ続くと思う。

 

 

 

 

*8月29日(水)危篤 最後の日

無事 告別式も終わりました。

少しづつ、記録を残していきたいと思います。

(*印は思い出しながらの記録です)

 

28日(火)

午後からゆっくりついていた日

発熱、痙攣・・

 

あと2,3日でヤマになるかも・・

9月に入ってから・・?とか。

 

29日(水)

先週ぐらいから、いつ抜けてもよいように仕事の段取りを意識していた。

今週は本当に切実だ、と思いつつ・・。

月末ゆえ、締めの伝票をなるべく片付ける。

 

3時半ごろ 父からメッセージ。

「今日来れたら来てください。今晩くらいがヤマだそうです」

 

ドキッっとした。

 

 血圧はどれくらいか、聞いてみた。

「100ぐらい。少し落ち着いた。今日は大丈夫。来なくていいよ」

 

まだ大丈夫かも・・。

明日から病院に詰められるように今日なんとか片付けて出よう・・。

 

 

事務所に一人になり、きりの良いところまで片付けようと気合を入れていた。

出来るだけ片付けて、病院に行こう。

明日は半休を取って付き添おう・・。

 

5時半頃、電話が鳴った。

 

  着信 〇〇病院

 

ドキッ・・

 

看「長女さん? お母さんの血圧が不安定になってきています。

 病院まで来れますか?」

 

とうとうきた・・。

 

慌てて、やりかけていた仕事を片付けるも、(しまうだけなのに)

焦りが出てきて、どうでもいい事に時間を取られる。

 

一度自宅に戻り、ワンコのお世話。(ご飯とトイレのみ)

長丁場になると思うから、制服のままより、着替えた方がいい。

焦りつつ、運転に注意する。

昨日一緒に居たから間に合わなくても許してくれるよ。きっと。

 

合間に父と妹・主人にも連絡を入れる。

到着した時には父が付き添っていた。

 

血圧は50以下。

心拍数は100前後。

呼吸は不規則になっていた。

苦しそうに口を開けて・・

酸素マスクもつけている。

 

私「お母さん、来たよ!」

 

しばらくして妹も到着した。(確か7時過ぎ)

 

妹はすでに半泣きだった。

 

3人揃って、見守りながら他愛のない話をしていた。

この調子なら、一晩付き添うことになるだろう。

そのつもりでゆっくり過ごすつもりだった。

 

・・突然心拍数が上がった。

 

187~  158~   100~   159~(確かこんな数字がランダムに)

 

3人で驚く。

 

心拍数の乱れが激しくなったあと、

今度はどんどん落ちていった。

 

80・・70・・50・・

「お母さん・・! もう逝くの? もう少しだけ居てよ。

あと10分くらい、居て・・」

 

ずっとしんどい思いをしてきた母に頑張れとは言えない。

 

30・・ピーーー。

 

 

あ・・逝っちゃった・・。

「お母さん・・・」泣き

 

7時38分だったと思う。

 

3人揃ってから、30分ぐらいで静かに旅立った。

なんて良いタイミングなんだろう。

最後まで母らしい、と思った。

 

 

 

本当に今までありがとう。

生んでくれてありがとう。

 

お疲れさま・・。

 

 

 この後、

看護師さん達にきれいにして頂いて、

白い布をかけられた母を見た時、

思いっきりこみあげてきた。

 

 

「お母さん!!!」

 

 

妹と二人で号泣した。